#303 社会科奮戦記(中の上)

ある日の教務

こんにちは。藤井です。

さて、「社会科奮戦記」の2回目です。
本当にお気楽にお読み下さい。

【浪人のきっかけ】
浪人を決意するようになったのは、最後の進路面談の時に同席していた父親の一言でした。
担任は相変わらず僕をディスってましたけど、やがて父親が静かにこう言いました。
「1年だけお前に時間をやる。1年で結果を出せ。大学に落ちたら俺の会社で働け」
この言葉を聞いた僕は、迷うことなく「死ぬほど勉強します。大学に行きます」と言ったのです。

(親父の会社で働くとなったら一生こきつかわれる)

その思いがあったんでしょう。

高校の卒業式の日、誰とも会話することなく卒業証書を家に持ち帰り、机の上にあったまっさらな参考書や問題集を引っ張り出しました。
しかし、どこから手をつけていいのか分からない。
次の入試まで1年を切っているのに。
4月から地元の小さな予備校に電車通学をすることになりました。


【浪人時代】
当時は受験競争のピークだった時期で、大教室があっという間に埋まっている状態でした。
講師の先生は、地元のトップ校を退職した先生や、新進気鋭の若手講師まで、多彩な顔触れでした。
どの教科においても、どの科目においても、ものすごい情熱をもって授業をされていたのを思い出します。
(先日亡くなられた金ピカ先生も、この時期が絶頂期でした)
マイクが壊れるんではないかと思うくらいの大声で授業していた数学の講師、ためになる雑談を楽しそうにしていた英文法の講師…。
僕は衝撃を受けました。
現役時代とは比べ物にならないくらいの圧倒的な教科指導力。
嫌な顔一つせずに質問に丁寧に答える優しさ。
おかげで最低偏差値28だったのを、覚えている限りですが69まで上げてもらいました。

でも、この段階でまだ「人に何かを伝える」という意識は芽生えていませんでした。

ちょうど、共通一次試験がセンター試験と名称変更して2年目でした。
センター試験の結果を見て、チューターの先生から言われたのは、
「岡山大学教育学部中学校教員養成課程社会専攻が一番確実」というものでした。
先生になるつもりはあまりなかったんですが、父親の言葉と重ね合わせた時、受験を決意せざるを得ませんでした。
その時に2次試験を日本史のみで受けられるということを知りました。
日本史はセンターレベルは何とかいけたのですが、2次試験になると練習が必要になる。
そのためには過去問を解かないといけない。
赤本で確認すると、マス目の嵐。
でも、この大学はこれくらいのレベルを要求しているんだから…。
ということで、2次試験対策授業を受講することになりました。
担当の日本史講師は、「マス目を埋めることが目的ではない。歴史とは因果関係の連鎖で動いているんだから、因果関係を図解していけば自然とマス目は埋まるようになっている」と言っていました。
僕の現在の指導にも生かされています。感謝です。


【受験~発表】
2次試験の日は雪の降っていました。完全防寒で行きましたけれども、暖房もなかなかきかなくて凍えながら受けました。
問題を開いて「えっ!」と思いましたね。

解答用紙のマス目が見当たらないのです。受験科目を間違えたかなと思って科目を確認したんですが、間違いなく日本史です。
しかし、マス目の練習は山ほどしていましたし、対策授業で扱った内容も少し含まれていましたので、スムーズに解けたと思います。
帰ってからは爆睡しました。

合格発表の日。
僕は相変わらず爆睡していましたが、朝9時ごろ、母親が「あんた、受かっとった!!!!!」と叫びながら僕を蹴り上げて起こしました。
予備校から電話があったんですね。
僕は寝ぼけていて信じられなかったんですけれども、自分の目で受験票を持って確かめに行きました。

間違いなく、番号がありました。

六度見しました。

それまでの人生で一番泣いた日でした。

(続く)

創心館住之江校
この記事を書いた人
藤井宏昌

宣言します。塾・予備校講師・私学教員の経験で蓄積してきたノウハウを、思う存分子供たちに伝えます。子供たちが「これが分かった」「点数が伸びた」という喜びを一緒に味わえるよう、全力で指導します。どこにも負けないプライドをもって、私も日々勉強します。
一緒に力をつけていきましょう。

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